主日礼拝と新たな気づき

・・・“礼拝”って言うと“THE宗教”って香りがプンプンしますねぇ。
まぁ宗教なんですが。『宗教』って言葉がなんでこんなネガティブワードっぽくなってるんでしょうねぇ。
お正月も初詣もお盆もお葬式もクリスマスも全部宗教がらみなのに、それは見ないようにしてる人たち・・・。
意識的に見ないように、というより、あまりに生活に密着しすぎていて気付いてないのか。
人類って宗教をベースに発展してきたようなものだと思うんですけどね。
なんて言いつつ、私自身も『宗教』というワードには警戒心がありますが。

と、話がすっごい逸れちゃいましたが、
昨日は旧約聖書のダニエル書の話でした。

「結果に固執せず、神に与えられた時間を過ごそう」「ものごとの結果は神様に委ねて、自分は今できる事をやろう!」
「後になって振り返ってみると、あのとき神様が共にいてくれたという事に気づける。それは目に見えない、静かな奇跡・恵みなんだ」っていう感じのお話でした。

ハイ、なんちゅーか・・・幼稚なまとめであります。
でも本当に宣教自体はとても分かりやすくて、神様の優しさを感じる内容でしたよ。
そのうちブログでもうまくまとめて、感想も書けるようになりたいな~。

それから私“復活”とか“十字架”っていう言葉を、よく宣教や教会員のみなさんが聖書の勉強会の時に口にしてるのを聞くんですが、説明を受けても「は?」という感じだったんですよね・・・ごめんなさい。

でも牧師のお連れ合いTさんに
「心に大きな傷を負って、もう再起不能だと思っていても、生き直せる。イエス様も十字架にかけられて復活したけれど、両手には穴が開いたままだったんだよ」
と聞いて、すっごい腑に落ちたんです。

傷があっても復活できる。それはイエスだけじゃなくて人間みんなそうなんじゃないかって。
もちろん十字架や復活にはそれ以外の意味もたくさんあるんだと思います。
でも、心に傷があって恐怖で動けない私は、Tさんのこの言葉にハッとさせられました。

なかなかイエス・キリストのイメージが湧かず、そのスゴさも分からない私ですが・・・こうやって自分と重なる部分があったり、“復活”等の言葉の意味の深さに気付いていくことで、力づけられたり身近に感じられるようになったりするのでしょうか。

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